金閣寺 (小説) (Kinkakuji (The Temple of the Golden Pavilion, Novel))
『金閣寺』(きんかくじ)は、三島由紀夫の小説。
1956年、『新潮』1月号から10月号に連載。
十月末に新潮社から刊行された。
読売文学賞受賞作。
精緻な文体で記述され、日本近代文学を代表する傑作の一つと見なされる。
海外でも評価は高い。
現実の事件を題材にとり、「偽の告白」をする、というふうに本人が述べているが、このことは特に本作品に当てはまる。
ストーリー
金閣寺放火事件に材を求め、鹿苑寺の美にとりつかれた「私」こと林養賢を描く。
事件の原因として養賢のもつ重度の吃音を核に置いている。
養賢は、吃音のため自己の意思や感情の表現ができず、戦前当時の軍国的な若者たち、同年代の女性たちと自分とのあいだに精神的な高い壁を感じていた。
養賢には吃音以外、身体に何の障害も無かったのだが、それだけのために青春期らしき明るさも恋愛もすべて抛棄して生きていた。
養賢は、少年期より父から金閣寺の話を繰り返し聞いていた。
その話の金閣は、常に完璧な美としての金閣であり、養賢は金閣寺を夢想しながら地上最高の美として思い描いていた。
やがて養賢は、僧侶で病弱であった父の勧めで、父の修業時代の知人が住職を務めていた金閣寺に入り、修行の生活を始める。
同時に仏教系の大学に通い始めるのだが、そこで足に内反足の障害をもち松葉杖をつきながら移動する、いつも教室の片隅でひっそりとたたずんでいる級友柏木と、美しい心を持っていると信じた鶴川に出会う。
一見した柏木の障害に自分の吃音を重ね合わせ、僅かな友人を求めるべく話しかけた養賢だった。
が、かれは実は女性を扱うことにかけては詐欺師的な巧みさを持ち、高い階層の女性を次々と籠絡している男であった。
障害を斜に構えつつも克服し、それどころか利用さえして確信犯的に他人への心の揺さぶりを重ねることでふてぶてしく生きる柏木の姿を、当初は全く理解し難いと思っていた養賢だった。
が、精神的な距離を置きつつも友人を続けていた。
柏木の養賢への批評はいつも心臓を抉り出す様に残酷で鋭く、養賢の心の揺れや卑怯を常に蔑み、突き飛ばすものであった。
養賢は、そんな柏木から女性を紹介されたり、笛を教えて貰うことで曲がりなりにも若い自分の人生の一ページを刻んでいた。
もう一人の友人の鶴川は、養賢に対し本心を開かないまま自殺して人生を閉じる。
鶴川は、自殺の前に柏木のみに本心を打ち明けていた。
一方、寺での養賢は当初、理由は分からないが住職にかわいがられている存在であった。
母は、養賢が将来の金閣寺住職になることに強い期待を抱いていた。
が、養賢にはそのような俗欲が無い、と言うよりも端から理解できず、そして母の期待に応える気持ちも無かった。
そのため、大学を休んだり金閣寺を抜け出したりしては叱責されていた。
母は、必死に住職に謝ることで何とか養賢の将来をつなごうと努力する。
が、養賢は住職が愛人といるのを偶然見かけた後、住職にそのことを揶揄することで、みずから決定的に将来の望みを断ち切った。
自己の将来を完全に断ち切り、世俗的な自分の存在理由を無にしてしまったその後、養賢は自己の美学を完遂すべく金閣寺の放火を決意する。
解説
作品「金閣寺」は、非常な美文の集合体のような作品であり、作品全体に金閣寺を支柱とした美術的な美しさと儚さに溢れている。
金閣寺は、それが人間の作品であるにもかかわらず、その前における人間の行いや感情は汚さ、弱さに溢れていた。
ただ、儚さだけは共通であったかもしれない。
金閣寺を主人公の養賢は、はるか室町時代から続き永劫に続くと思われながらも、実はいつ破壊されるとも限らない完璧で永遠で儚い美として捉えていた。
そしてその観念は自己の不遇と孤独のなかで実際の金閣よりも遙かに強力な、精神的な美として象徴化し固定化していた。
一般として青春期で性欲も旺盛にあるはずの養賢だったが、女性にまったく相手にされなかった。
柏木に紹介してもらった女性とも性交に達することができなかった。
女性の美と金閣とを当初重ね合わせていたのだが、金閣が隔絶した価値を有することに確信し、性的な自己の存在を無価値化する。
また、自己の将来に対して母の思惑とは逆に、何の希望も描いていなかった。
絶望ではなく希望というもの自体が、かれに生得的に存在しないようであった。
かれは、みずから住職に嫌われ自分自身の将来をも無価値に追い込んでゆく。
そして友人として、友人と思っていた美しい精神の持ち主であったはずの鶴川は、実は養賢には心を開かなかった。
残酷な男であるはずの柏木にのみ手紙で本心を伝えて自殺した。
柏木は、恐らく養賢にとって友人と言うよりも友人の様な批評家であった。
障害者と自己を規定し行動に制限する養賢と同じ高さに立っていながらも逞し過ぎる存在であった。
養賢にとって鶴川が柏木にしか心を開かなかったことにより、すべての友が消えたことになる。
この一連の流れは、女性、社会的地位、未来、友をすべて失うことで、現実世界における自己に未練をなくし精神世界の存在に転化させ行くことになる背景が描かれている。
養賢個人の背景だけでなく、時代背景としては大戦末期から敗戦、戦後直後であり、日本人の精神的美が否定され、アメリカに蹂躙された意識の時代であった。
あるとき、米軍兵がパンパン(米軍兵相手の日本人売春婦)を連れて金閣寺を訪れ、理由は分からないが喧嘩を始めた。
彼女を殴り、なぜか養賢に踏ませ、しかもその直後に大事そうに寄り添って去ってゆく。
彼女はその後流産したと言って住職に訴えている。
これらのことが日本その物の精神の死を象徴している。
その様な時代での養賢は、個体としていつの時代も普遍的にありうる吃音という障害からくる、精神的な不遇と、価値観が大きく変動する時代的な不安定さのなかで、自分の将来や普遍性に対して価値観を構築できなかった。
ただ、完璧の美である金閣が、消失することで物理的な儚さを終わらせ、精神的において永遠であらしめることに重大な価値を見出し実行した。
三島の戦後日本の精神的な死への憎悪と呪詛がこめられているように見えるが、どちらかといえば、憎悪と呪詛をモチーフとしながら、精緻な詩的作品を構築している。
文章は終始美文のみで構成したかのような、完璧とも言える文体からなる。
物理的、もしくは想像上の視覚的な美を主に表現し、個人のもつべき精神美は作中ではほとんど登場しない。
実際の事件との関連
登場人物はもとより、「私」の行動自体、事実とはかなり異なる。
一例として、終結部分で、「私」は生きようとして小刀とカルモチン(催眠剤)を投げ捨てている。
(実際には山中でカルモチンを飲んだ上、小刀で切腹した)
水上勉も同事件を取り上げ、『金閣炎上』、『五番町夕霧楼』を出している(各新潮文庫ほか)。